昔描いて賞に応募したけど一次選考落ちでかすりもしなかったので、外部に載せんの禁止とか書いてた気がするけどさすがにもう時効だろってことでここに載せておきます。
結構長いので暇な時に読んでください。

造花とドーナツホール
午前3時。丈草(じょうそう)区郊外のショッピングモール、ライラックモール。
閉店後、客も店員も全てが消え失せた真っ暗な建物内。ひとつの喫茶店を除いて、全ての店から光が消え失せた時間。
闇の中で唯一、その店は、救いのような青い光を放っていた。私は、街灯に吸い寄せられる蛾のように、ふらふらと覚束無い足取りを自覚しながらその店の入口へと歩く。
――あれ。私、なんでここにいるんだっけ。
朦朧とした思考が、煙草の煙みたいにふわりと浮かんで、消えていく。今はとにかく、この店に入らなくちゃいけない。何故だか分からないが、そんな思考が頭を支配している。
私は、青い店の青い光の下、青い扉の、銀色のドアノブを下げて、扉を引いた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、喫茶『バックドア』へ」
「…………」
「カウンターへどうぞ」
入口に一番近い席から2番目、この店のマスターと思しき老齢の男性の正面席に腰掛ける。私の他に、客はいないようだ。
全面暗めの青色に包まれたシックな店の雰囲気に合った、ウレタンのクッションのロッキングチェアは、心地よいが足が床につかなくて少し落ち着かない。
「ご注文はお決まりですか?」
「ブレンドで」
「かしこまりました」
初めて行く喫茶店では、ブレンド、と言えば、基本的にその店のノーマルなホットコーヒーを出してくれる。17年と少し生きてきた私が身につけた、数少ない知識のひとつだった。
注文を受けて、マスター(呼び名に困るから、この男性がマスターだと勝手に決め付けた)は、赤色の袋を開けて小さなコーヒーミルに豆を入れると、カリカリと回し始めた。
大して客の入らなさそうな小さな店だし、そのサイズで事足りるのかな。カウンターに頬杖をつき、ミルを回すマスターの姿をぼんやりと眺めながら、そんな失礼なことを考えていた。
豆を挽き終わり、マスターは粉微塵になったコーヒー豆を抽出機に入れる。芳醇な香りが、私の元まで漂ってきた。
「お待たせ致しました、ブレンドでございます」
「……ありがとうございます」
やがて、ソーサーに乗せられたコーヒーカップが私の前に置かれた。
ふうふうと冷まして、ひとくち。
うん、コーヒー味だ。
私はよく喫茶店を利用するが、あくまで時間潰しや待ち合わせのために利用するだけだから、美味しくコーヒーを味わう舌を持ち合わせてはいない。正直、普通にコーラとかオレンジジュースとかの方が好きである。
しかし、午前3時という時間帯、気温に関係なくなんとなく肌寒い心持ちになっていたせいか、熱いコーヒーが喉を通るとほっとして、安心できた。
「さて」
私がひとくち目を味わうのを待って、マスターはミルの掃除をしながら、私に向かって言う。
「お客様は、ご自身の現状をどこまで把握なされているでしょうか」
自分の、現状。
初めて訪れる喫茶店で、従業員の方から振られる話題としては、不適切極まりないものだろう。
しかし、私はその問いかけを違和感なく受け入れる。頭に残った数少ない記憶が、私に囁く、私の『現状』……。
「……たぶん、死んだんですよね。私」
いつからこうなってしまったのか分からないが、今の私からは、いくつかの記憶が抜け落ちてしまっている。
私の名前は、和泉詩菜乃(いずみ しなの)。高校2年、17歳の高校生である。
17年間生きてきた記憶は、今までと問題なく私の頭の中に残っていると思うのだが、どうにもここ数日のことが思い出せない。
気が付いたらライラックモールの中にいて、ぼうっとする頭で、この喫茶バックドアに入店した。
自分の体に温もりを感じられないことと、記憶と意識が定まらないことから、なんとなく、自分がもう生きていないことを察していたのだ。
「あまり動揺しておられないようですね。生に執着のないお客様はときどきいらっしゃいますが、ここまでは珍しい」
「あの。ここは、どういった場所なんですか」
「先ほども申し上げました通り、ここは喫茶バックドア。魂が安らぎを求めて訪れる、死者が来る喫茶店……『不帰の客が帰る場所』でございます」
不帰の客が、帰る場所……。
不帰の客とは確か、『帰らぬ人』。つまり、死者を指した言葉のはずだ。死者が死後訪れる場所、ということだろうか。
「変なキャッチコピーですね」
「今の文言を聞いて、これがキャッチコピーだと思った方はお客様が初めてです」
「そんなキャッチコピーじゃ、お客さん来ませんよ。もっとこう……『満員御礼、世界最強のブレンドコーヒー』みたいな強烈なやつにしないと」
「あまり人の話を聞くのがお得意ではないようですね」
私のハイセンスが炸裂した渾身のキャッチコピーにも、マスターのしわがれた微笑みは揺るがない。
「申し遅れました。この喫茶店のマスターを務めております、田中と申します」
ここで初めて、私はマスターである田中さんの顔をちゃんと認識した。
きちっと堅めた白髪と上品な口ひげが特徴の、バリスタ衣装と青いエプロンが良く似合う、素敵なおじ様だ。
「あ。わざわざご丁寧に。私は和泉詩菜乃と申します」
「よいお名前でしたね。来世は違うお名前になってしまうのでしょうが」
「なんでそんなこと言うんですか?」
前言撤回。慇懃無礼なジジイだ。
「さて、自己紹介も済んだところで。当店にいらっしゃったお客様には、失くしてしまった生前の記憶を思い出して頂いております」
「あ、結構です」
「そんなポイントカードを断るような調子でお断りされた方もお客様が初めてです」
「だって嫌じゃないですか。もしダーウィン賞ばりのめちゃくちゃ間抜けな死に方だったら、そんなの人に知られたらお嫁に行けませんよ」
「もう行けませんよ、死んでるし」
「漫画とかで、アイスコーヒーを相手の顔にぶっかけるシーンあるじゃないですか。あれ、死ぬ前に一回やってみたいと思ってたんですよね。これはホットですけど」
「コロナ対策でこちらとカウンターの間にアクリル板を立てているので、無駄かと」
コロナって何だ? 対策って? もう死んでるのに、何をどう対策することがあるというのか。
……あ、本当だ、透明だから気付かなかったけどアクリル板がある。
「話を戻しますが……お客様。ここで生前の記憶を取り戻さなければ、幽霊として、半永久的に町をさまようことになってしまいます。自らの死の記憶を振り返るのはあまり気持ちの良くないことだとは存じますが、ここは割り切って頂くのがよろしいかと」
……たしかに、ここを出ても行く宛てはない。
忘れてしまった『自分の死』を、今さっき名前を聞いたばかりの他人と一緒に思い出すなんてぞっとしないが、致し方ない。
あまり気乗りしていない、という態度を隠さずに、私は承諾の意志を伝えた。マスターはにっこり微笑むと、私の前のカウンターに、かわいらしい皿の上に乗せられたミルクプリンとスプーンが差し出された。
「そのスプーンで、コーヒーを上からかけてお召し上がりください」
「……?」
さっきまで、私の記憶の話をしていたのに。いきなりスイーツを出してくるってどういうことだろう。
しかしまぁスイーツは嫌いではない。特別好きな食べ物も嫌いな食べ物もないけれど、甘いものは好きな方だったと思う。言われるがまま、ミルクプリンの上から、スプーンでコーヒーをかけてみる。
真っ白なドームの上に、闇色の雫が垂れる。白と黒の鮮やかな縞模様、その一部分をスプーンですくいとり、口に運ぶ。
「…………!」
やわらかな甘みと、それを引き立たせるシャープな苦味。
それを時間をかけて味わう間もなく……私の意識に、厚手のシルクのカーテンがかかった。
#
全く規則性なく、デタラメに気の向くままに絵の具を塗りたくったような壁の前に、私は立っていた。
ぐるぐると渦巻く色の螺旋は、じっと見つめていると、私の足を掴んで壁の向こう側へと引っ張られてしまうような妙なプレッシャーを放っている。
「エモいっしょ、『かんなぎの壁』」
一面に広がる不規則な色の奔流に飲まれそうになっている私の横に、ハスキーな声をした少女が並び立つ。
大創真鈴(だいそう まり)。私と同学年の友達で、美術部部長、そしてこのアート作品の作者である。
自信作の題名を語り、得意気に胸を張る真鈴。「この絵は完成するまで誰にも見せられない」と言い、彼女は部員がみんな帰った部室でひとり、半年以上かけて、10月末、来週の文化祭に向けて作業を進めていた。そんな大作を見上げる彼女の顔は、満足と恍惚に満ちている。
「かんなぎの壁?」
「そ。かんなぎの壁。Q展最優秀賞はもらったも同然だわ」
Q展とは、我々美術部が文化祭中に開く展覧会のことだ。
見る人に疑問(Question)を投げかけるというテーマのもと、部員たちが各々作成した作品を展示し、来場者に評価してもらう。一番評価を集めた作品は、最優秀賞として、その写真を美術倉庫に飾ってもらえる。
真鈴が愛してやまないイラストレーターは、この学校のOBらしく、その人が描いた絵の写真は今も美術倉庫に飾られている。そこに自分の作品を並べるんだと、真鈴は何度も目を輝かせながら私に語っていた。
「……友達の私がひいき目に見ても、これで大賞を取れるとは到底思えないんだけど」
「あんたのはひいき目じゃないから。むしろ、いつも私の絵にいちばん厳しい評価つけるのあんただし」
「そうなの?」
「まぁ、この作品はこれで完成じゃないんだけどね。文化祭当日を楽しみにしててよ」
ふうん……真鈴がこんなに自信満々に自分の絵を紹介するのも珍しいし、素直に楽しみにしておくとしよう。
「そういえば、詩菜乃はどんなの描いたの?」
「私は別に。大した絵じゃないよ」
「そう言って毎回けっこうすごいの描いてるじゃん。見せてよ」
本当に大した絵ではないのだが……。どれが詩菜乃の絵かな、と美術室を探し回る真鈴に、私は渋々自分の絵を見せる。
目立たないように美術室の一番隅っこに置いたイーゼル、そこに立てかけたキャンバスの前に案内する。赤い布を取り払って見せた絵に、真鈴は目を丸くした。
「薔薇と、ダイヤモンドと……女の子?」
ダイヤモンドが雨のように降り注ぐ背景の前に立つ、薔薇を持つ女の子。
背景も女の子の着ている服の色も、もちろん薔薇も。全て落ち着いた真紅をベースに色をまとめた、油絵だ。
「いい絵だと思うけど。Q展の、見る人に疑問を投げかけるってテーマはどこに現れてるの?」
「もう一枚あるの」
私は隣接した美術倉庫から、もう一枚、同じサイズの絵を取り出してくる。
こちらも、全く同じ構図の油絵。赤い背景、赤い服を着た女の子、赤い薔薇。イーゼルから一枚目の絵を外して、二つの絵を並べる。
「……全く同じ絵、ではないね。でもちょっとだけ違いがあるような……上手く言えないけど。これって、2枚セットでひとつの作品ってこと?」
「そう。タイトルは『PIRACY』」
「パイラシー……海賊版って意味だっけ。あぁ、なるほどね。どっちかの絵は、偽物っていうこと?」
「そう。真鈴は、どっちが『海賊版』だと思う?」
じっと2枚の絵を見比べ、たっぷり3分くらい時間をかけて真鈴が出した結論は、
「左。イーゼルにかかってた方」
「さすがだね。そう、左の絵は、先に描いた右の絵を見て描いた贋作だよ」
「自分の絵の贋作を自分で描くなんて、面白いことするじゃん。なるほどね、どちらが偽物なのかを、見る人へ問いかけるってこと?」
「実はそれだけじゃないんだ」
私は自分のカバンから、3つのアイテムを取り出した。
ひとつは、造花。
ひとつは、雑貨屋に売っていた偽物のダイヤモンド。
そして、去年ゲームセンターで気まぐれで取った美少女フィギュア。
「右の『本物』も、全て『偽物』をモチーフとして描いた絵なんだ」
真鈴が、呆気に取られた顔をして、絵と3つのモチーフとを見比べる。
「人の絵を真似て描いた作品を贋作と呼ぶのなら。本物の花に似せて作った造花、本物のダイヤモンドに近付けて作った偽物のダイヤモンド、本物の人間を模したキャラクターのフィギュア、それらを描いたものは本物と呼べるのか?」
「……それを贋作と同一に並べるのは違うんじゃない?」
「どうかな。美術家の中には、本物にこだわって、建物の絵を描く時にはネットの写真じゃなくて実際の建物まで赴いて、実物を見て描く人もいるし。まぁ、今の真鈴みたいに、『偽物と本物ってどう違うんだろう?』って考えてもらうっていうのが、この絵の趣旨かな」
偽物を見て描いた本物の絵と、それを見て描いた偽物の絵。
そこに何か違いはあるのか、あるとしたらその違いは何なのか。何をもって人は本物と偽物を決めるのか、そこに確実な境界線はあるのか。
私は割と面倒くさがりな性格で、そんな事は考えても仕方がないだろうということを延々と考えるような哲学の話は好きではないのだが、この作品について語ると自分がその哲学を語っているみたいで、何とはなしに気持ちが悪い。
自分でもいい絵が描けたとは思うけど、自信をもって人に紹介できないのは、こういうところが理由である。
「なるほどねぇ……。相変わらずすごいこと考えるね、詩菜乃」
「そうかな。ありがと」
「普段はこんなに何にも考えてなさそうな顔なのに」
「なんでそんなこと言うの?」
#
……そうか。思い出した。
高校で美術部に所属していた私には、大創真鈴という友達がいて、彼女と一緒に文化祭に向けて作品作りに取り組んでいたんだ。
一週間後には文化祭が迫っていて、完成した作品をみんなに見せる機会を心待ちにしていた。これはおそらく、死ぬ数日前の記憶だろう。
しかし、思い出せたのはここまで。
自分がいつ死んだのか……文化祭を迎えることはできたのか、文化祭を前にして死んだのか。そもそも、こんなに元気だったのに、自ら死に走るような悩みもなかったのに、どうして……。
自分の死因には全く関係がなさそうな今の記憶の余韻が、冷たく甘いミルクプリンの味と共に、いつまでも口内に残り続けている。
「……余計、分からなくなりました。私、なんで死んだんでしょう」
「ひとくち目だけでは、死の真相には辿り着けませんでしたか」
「マスター。このミルクプリン、何が入ってるんですか? 食べた瞬間、記憶がぶわっと蘇ったんですけど……」
「危ないものは入っておりませんよ。もっとも、死者の基準でございますが」
死者の基準で食べたら危ないもの……塩とかだろうか。成仏しちゃうみたいな。
生きているうちにしたことの無い、失った記憶を呼び起こすという不思議体験をしたせいか、なんだか喉が乾いてしまった。温くなってしまったコーヒーを、グッと飲み干す。
マスターは何も言わず、アクリル板をずらしてカウンター越しに空のカップを回収し、またカリカリと新しいコーヒーを淹れる作業を始めた。
「なにぶん、全て手作業で淹れておりますので、コーヒーを作るのには少々お時間を頂きます。お客様はその間に、次の回想をなさるのがよろしいかと」
「…………」
次の回想。それはつまり、このミルクプリンのふたくち目を食べろということだろう。
ひとくち目の回想が、普通に充実していたせいで。普通に幸せだったせいで。そこから死へと向かっていくまでの記憶を呼び起こすのが、少し怖い。
「……どのみち、私は、死んでいるんですよね」
「はい」
なら、何が怖いと言うんだろう。
この世で死より怖いものがあるとしたら、それは一体何なのだろうか。
何が私を……私のスプーンを握る手を、こんなに揺るがしているのだろう。
小さく息を吸って、私はミルクプリンを大きめにすくい取り、ふたくち目を舌の上へと運んだ。
#
「どうした? また頭痛か?」
左から私の顔を覗き込んできたその男子に、私は大きく息を吸って、吐いて、「大丈夫だよ」と返した。
性格の問題なのか、単に注意力散漫なのか。私はよくその場に立ち止まってぼうっとしてしまうことがある。その度に「ちょっと頭痛が……」なんて誤魔化しているせいで、線の細い見た目も相まって、周囲からすっかり病弱少女として扱われるようになってしまった。
学校からの帰り道、私たちは、自転車を押して歩いている。さっぱり葉が落ちきった寂しい並木の坂を下り、駅の方へ向かう。
12月、生徒たちがみな冬休みの訪れに心を踊らせる中、彼の顔は薄暗い曇り顔だ。
「無理すんなよ、そこの公園で休むか?」
「大丈夫だって、いつもの事だし。それより、何の話だったっけ?」
「……あぁ。真鈴が俺のこと、何か言ってなかったかって聞きたくて」
彼は、赤壁大地(あかかべ だいち)。私や真鈴と同じ高校2年生で、真鈴と付き合っている。
バスケ部に所属していて、顔立ちもいわゆる塩顔で整っており、女子からはかなり人気がある。女たらしだと噂されているが、実の所、中学まではバスケ一筋で恋愛に興味がなかったらしく、真鈴が人生初の恋人だという。
そんな人生初の恋人との関係に何やら怪しい雲行きがあるようで、先ほどから赤壁は重苦しい溜め息を吐き散らかしている。
「別に何も。真鈴、人に見えるところでベタベタしないタイプだし、赤壁のいないところで赤壁の話とか、されたことないよ」
「……うん、そんな気はしてたけど」
困ったように、紅くなった頬をかく赤壁。
「心配なんだよな。あいつ、文化祭からずっと、どことなく元気がないっていうか。おデートに行っても、楽しそうなんだけど、たまに上の空になってたり」
「デートのこと『おデート』って言うのキショいからやめてくれる?」
「仕方ないだろ、なんか口に出して言うの照れ臭いんだよ。
……話戻すけど。さっき和泉が言った通り、あいつとは学校では全然話さないし、あんまり部活のこととかも聞いたことないし。喧嘩とかしてるわけじゃないけど、なんか、このままじゃダメなんじゃないかって思ってさ」
話を聞いて、私は、ふうんと考え込むフリをする。
私は真鈴のことを親友だと思っているし、真鈴が困っているなら何でもしてあげたい。赤壁も、クラスが違ってからはあまり話さないけど、普通に友達だから私にできることがあるなら手を貸してあげたい。
しかし、真鈴と赤壁の関係に対して何かお節介を焼こうとは、正直あまり思えない。自分が冷淡な人間に思えて嫌だけど、恋人同士の2人の関係に私が踏み入って何かをしたところで、悪い方向に進むことはあっても良い方向に進むことはないと思うから。
「そんなに心配なら、私なんかと2人で一緒に帰ってるのはよくないんじゃないの。真鈴が変な勘違いしちゃうかも、とか考えなかった?」
「ちょっとは考えたけどさ……真鈴のやつ、最近は授業が終わったら捕まえる暇もなく真っ直ぐ帰っちまうし。和泉に聞けば、あいつが部活とかで悩んでることがあれば、分かるんじゃないかなって」
「無いよ。何も無い」
あんまりにもキッパリ言い切るので、赤壁はすがるように再度私の顔を覗き込んでくる。
「そんな無下にしないでくれよ。なんかあいつの好きなものとか知らない?」
「モノで機嫌を取ろうって考え方が間違ってるんじゃないの」
「いや、でもさ。多分あいつが悩んでるのって絵のことだろ?」
「なんだ、分かってるんじゃん」
「それだと、俺が話聞いたところで力になれそうにないし。絵のこと全く知らねーやつに話聞いてもらっても、何にもならないだろ。少なくとも、俺は真鈴の前でバスケの話はあんまりしない」
真鈴が羨ましくなるくらい、赤壁は優しい。不器用だしちょっとズレている気もするけれど、彼女のことを大切に想っていることが伝わってくる。
実は、真鈴が絵のことで悩んでいるその原因を、私は知っていた。
文化祭で真鈴が発表した、『かんなぎの壁』。
ただ無造作に絵の具を塗りたくっただけだと思っていたあの壁は、実は、スクラッチアートのように削ることで、下に隠された綺麗な虹模様が現れる仕組みになっていた。
来場者にはスクラッチ用のペンが渡され、自由に絵を描くことが出来る。
だから、真鈴があの作品で見る人に投げかけた問い掛けは何なのかと言うと、『あなたは、ここに何を描きますか?』。
一目見たときは、とんでもなく難解なアートなのかと思ったあの作品は、実はとてもシンプルなものだったのだ。
かんなぎの壁は、その独創性とエンタメ性を評価され、文化祭終了後にSNSで拡散された。5000以上の『いいね』が付いて、真鈴はちょっとした有名人になった。
そんなかんなぎの壁は、もちろん最優秀賞を獲得し、憧れのアーティストと写真を並べられると真鈴は泣いて喜んでいたのだが……問題は、その後だった。
かんなぎの壁をSNSで知り、真鈴のその他の作品を見たとある広告代理店の人が、2月に開催されるデパートのバレンタインフェアのポスターデザインを依頼できないかと連絡をとってきたのである。
「彼氏としての役目は、せめて一緒にいる間くらい好きなものあげたり食わせたりして、絵の悩みを忘れさせることなんじゃねーかな、と」
逆だ。いま真鈴は、絵のことを忘れることなんてできない。
幸いもうすぐ冬休みだし、期限はまだ差し迫ってはいないが、試行錯誤を繰り返して苦しんでいる。
頭の中で思い描いたデザインを、依頼された形式に落とし込むことが出来ず、生まれて初めてのプロの仕事に必死に食らいつき、足掻いているのだ。
だから、絵のことが分からない、作品として世に出す絵を描いたことがない人間は、きっと彼女の力になれない。もちろん、私も――
しかし、ここまで必死に言われると、少しくらいアドバイスでもしてあげないと私が悪者みたいだ。何かないかな、と首を捻る。
「そうだなぁ。一回、美術部の活動で学童保育の小学生に絵を教えに行ったことがあるんだけど」
「ほお」
「その時、けっこう楽しそうにしてたんだよね。行く前は、子供は何考えてるか分かんないから苦手だーとか言ってたけど、人に絵を教えるっていうのはあの子の性に合ってるみたい」
「へえ。なんか分かる気がするな」
やがて、駅前広場に着いた。
駅の出入口の他に、ファストフードを中心とした飲食店や雑貨屋などが並ぶ、円形の広場だ。
本来なら、ここの駐輪場に自転車を停めて電車に乗って帰る。しかし今日は、文具屋の前に自転車を停めた。
赤壁は不思議そうにしながらも、私にならって隣に自転車を停めた。
「なんか買い物か?」
「買い物するのは赤壁だよ」
「え?」
この店には初めて入ったが、どうやら本屋と文具屋が一緒になっているタイプらしい。モダンな内装で良い雰囲気。
文具コーナーへ赴き、目当てのものを探す。
「あった。ほら、これ」
#
固く団子結びされた記憶の糸が解ける。
今の記憶は……文化祭から、少なくとも一ヶ月は過ぎた頃、12月の記憶だった。
「マスター」
「はい」
自分で自分の記憶の解釈に困り、マスターに呼びかけたものの、次に繋ぐ言葉が見つからなくて、私はぱくぱくと口を開く。
思い出した記憶の内容それ自体に問題はなかった。赤壁という友人に、自分もよく知る彼の交際相手・真鈴について悩んでいることを相談され、自分のできる範囲でそれに答えた。
「……私は、ここに来るまで……死ぬまでの、数日間の記憶を失っていたんだと思っていたんです」
しかし、今の記憶はどうだろう。
最初の回想は、文化祭1週間前、10月下旬の記憶だった。そして今の回想。間違いなく、そこから一ヶ月以上は経っている時期の記憶だ。
漠然とした不安が波となって押し寄せ、頭が真っ白になる。
分からない。私は、いったいいつからの記憶を失っている? 私が死んだのは、いつのことだ。
マスターは、私が回想している間に用意してくれたらしい、熱い淹れたてのコーヒーが注がれたカップを運んで置いて、にこりと微笑む。
「この店を訪れたお客様は、皆様、『死の3時間前までに経験した記憶』を失われております」
「3時間前?」
「ええ。それを、コーヒータイムを通じて取り戻して頂き、次に魂の向かうべき場所へと送り出す……それが、当店の役目。ひいては、この私めの役目でございます」
馬鹿馬鹿しい。歳上の男性に対して失礼な態度だと思いつつも、私は露骨に鼻白む。
「そんなわけない。今思い出した記憶は、ひとくち目の時に思い出した記憶から一ヶ月以上も経った時期の記憶でした! 死の3時間前までの記憶なんて……そんなはずない!」
「私は、嘘は吐いておりません」
「……私は」
あまりにも爽やかに、コーヒーを淹れるために豆を挽くくらい当たり前のようにそう言い切るマスターに、私は声を失う。
「私は……どうなっているんですか」
どうなっているも何も、死んでいる。
そんなことは自分が一番分かっている。ここでどれだけ真実を追い求めたところで、意味なんて無いことだって。
目を伏せると、ふたくちぶん欠けたミルクプリンが、不可解に怯える死人を嘲笑うかのように艶めいていた。
「……コーヒー、飲みます」
全く必要のない宣言と共に、マスターが新しく淹れてくれたコーヒーをひとくち飲む。二杯目は一杯目よりも甘く、えぐみや酸味が混じりあった、複雑な味がした。
ミルクプリンが載った皿からスプーンを取り、コーヒーを上からかけ直す。一瞬だけプリンから立ち上った湯気の中に、自分自身の後ろ姿を見た気がした。
――ねぇ。誰なの、あなたは……。
知るためには、次の回想に進むしかない。どんどん不安は大きくなるけど、これ以外に残された選択肢はないのだから。
ミルクプリンをすくい取る。これで、山の半分が消えた。
「…………」
三度目の回想の、幕が上がる。
#
まだ深くない夜、12月の公園には冷たい空気が満ちている。今夜25時から、雪が降り出すらしい。
背中の部分に座れるようになっている、兎を模した石のベンチの前に立つと、この公園の全体が見渡せた。滑り台もブランコも、子供の頃に遊んだ遊具は尽く撤去されてしまっていて、殺風景なこの景色には、公園らしからぬ寂寥感が落ちている。
チラつく街灯を見上げて、私は溜め息だと思われない程度に、気を遣った息を吐く。白い息が、もどかしい速度で宙を浮かんで消えていった。
「ねえ。答えてよ」
正面に視線を戻す。私を公園に呼び出した張本人である大創真鈴が、いつもの明朗快活な顔を翳らせ私を睨んでいた。
その瞳には、単純な怒りの感情だけではない、縋るような寂しさ、祈るような懸命さが見て取れた。
私は彼女のことを親友だと思っているが、それを面と向かって言葉にしたことはない。けれど、真鈴は何の屈託もなく、面と向かって、何度もそれを私に言える人間である。
そんな彼女が、こんな顔を向ける。理由はすぐに察することができた。
「昨日、大地と2人で一緒に帰ってたよね。何してたの」
真鈴の恋人、赤壁大地。彼女がここまで必死になるのは、絵のことと彼のことだけだ。
後ろめたいことはない。私は、正直にありのままを伝えた。
「真鈴のことで悩んでるって言ってたから、話を聞いた」
「大地からもそう聞いた」
その口ぶりは、まるで私と赤壁が口裏を合わせているのだと疑ってやまないようなものだった。
「私、あの日は担当の人と打ち合わせがあったから、家に帰ってすぐ着替えて電車に乗ったの。その時に、大地と詩菜乃を見た」
「文房具屋に入っていく所?」
「出てくる所。どっちだっていいでしょ、そんなこと」
こっちだって別に、目撃したのが入っていく所なのか出てくる所なのか気になって聞いたわけではない。少しムッとする気持ちを抑えて、私は言葉を返す。
「授業で使う文房具を買っただけだよ。赤壁には、相談に乗るついでに付き合ってもらったってだけで」
「お揃いの、可愛い紙袋ぶら下げて?」
しまった、という顔をしてしまったのがよくなかった。
私の焦り顔をみとめた真鈴の表情が、みるみる悲哀の色に染まっていき、私が何か釈明する前にその感情が爆発する。
「その顔! やっぱり後ろめたいことがあるんじゃない!!」
ここまでヒステリックな声をあげてなお、具体的に、私が真鈴から赤壁を奪おうとしているなどとは言わないあたり、本当は真鈴だって私のことを信じたいはずだ。
最近、例のポスターデザインの件で悩んでいたから、余計に不安になってしまっているだけ。少し残念な気もするが、ちゃんと最初から正直に打ち明ければ分かってくれる。
胸の前に拳を置いて、頭の中に希望的観測をうたう。私はスッと息を吸い、二の句を継ごうとする真鈴を止めるように手のひらを突き出す。
「違うの。聞いて、私は」
「聞きたくない」
震えた声で、釈明すらも無用だと断ぜられてしまう。突き出した左の手のひらが、行き場を失ってみっともなくだらりと垂れた。
感情がヒートアップしすぎているようだ、もはや真鈴は言葉を受け付けない。
こんな時に、実際に文房具屋で買った品物を持ってきていれば、それだけで事を済ませられたはずなのに。不用意な自分に腹が立つ。
「相手が詩菜乃じゃなければ、こんなにモヤモヤしたりしなかったのに」
「……なんで」
「あんたは、人が出来すぎてる。美術部で作品を見せ合うたびに、私はあんたの作品に、そこから溢れる才能に、いつも内心嫉妬していた」
こんな状況下だが、私は素直に面食らってしまう。
意思に反して緩んでしまった口元を隠すため、マフラーをつまんで引き上げる。防寒のために巻いてきたマフラーが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
嬉しかった。人が出来すぎてる、という部分ではない。一方通行で私が見上げる側だと思っていた芸術の分野において、真鈴が私にそんな感想を抱いてくれていたことが。
嬉しさという感情を天秤にかけて比べるなんてナンセンスな事だと思うけれど、これはおそらく、高校の合格発表の時よりも嬉しい。17年の人生で一番嬉しい事だと言っても過言ではなかった。
しかし、その嬉しさは束の間。真鈴の目に涙が浮かんで、つうと零れ落ちるのを見て、私の感情は現状へと引き戻される。
「いつもあんたは、私の作品を素直に褒めてくれる。ダメな所はダメだって言ってくれるから、心から褒めてくれてるんだって分かる。だからこそ嫌になるの。私はあんたの作品を見て感動しても、素直に褒められないから」
「…………」
「文化祭の前。あんたが『造花のパラドクス』を見せてくれた時、私の頭の中には嫉妬と不安しか無かった」
造花のパラドクス。散々迷った末、文化祭3日前の締切ギリギリになって変えられた、あの赤い二枚組の絵のタイトルだ。
頬まで垂れた涙を右手で粗雑に拭って、真鈴は続ける。
「渾身のアイデアをぶつけた『かんなぎの壁』でも、これには勝てないかもしれない。相変わらずすごいこと考えるね、普段は何にも考えてなさそうなのに。……賞賛の言葉はひとつも出てこなくて、下らない最低の嫌味しか出せなかった」
「私だって、真鈴の絵には敵わないってずっと思ってた。だから、こんな時にこんなこと言うのはおかしいかもしれないけど、さっき私の作品を褒めてくれたの、めちゃくちゃ嬉しかった」
「……敵わないね」
自分の正直な気持ちをぶつける。真鈴は自嘲気味に、力なく首を横に振った。
「こんな状況にあっても詩菜乃は素直だね。私なんかとは大違い、いつ大地に愛想尽かされても文句言えない」
「そんなことない」
「うるさい。聞きたくない!」
腹の底からの絶叫を喉元で無理やり抑えたような、歪な低い声。
「……たぶん、浮気とかそういうのじゃないんだと思う。まだ」
「まだ?」
「そんなことは最初から分かってたの。私が怖いのは、優しくて、素直で正直な詩菜乃と一緒にいることで、大地が私に愛想を尽かしちゃうんじゃないかってこと」
「ばか。あの時赤壁は、恥ずかしくなるくらい真鈴の話しかしなかった。そんなことあるわけない!」
「あんたの感想なんか聞いてない。あんたに何が分かるの!」
気付けば私は歯噛みしていた。
あれだけ、ふたりの問題には肩入れしたくないと思っていたのに。赤壁が真鈴を想う気持ちを彼女自身が自覚していないことが、悔しい。悔しくてたまらない。
徐々に、自分が冷静さを欠いてきているのを自覚する。私は一歩踏み出して反論する。
「真鈴が今、ポスターデザインのことで悩んでるのは知ってる。でもなんでそれを赤壁に話さないの! あんたと同じくらい、あいつだって不安に思ってるんだよ!」
「本当にうるさい、聞きたいのはそんなことじゃない!」
「真鈴!」
頭にかっと血が上る。
このままじゃ話を聞いてくれないという焦りから、私は彼女の肩を両手で掴もうとした。
「やめてよ!!」
その手を払い除けるように、胸のあたりをドンッと手のひらで突き飛ばされる。
加減がきかなかったのか、元から加減するつもりじゃなかったのか。衝撃は思ったより強烈で、一瞬息ができなくなる。
一歩下がって、しかし、足がもつれてそのまま体勢を崩す。視界がぐるんと回転する。
後頭部に響く轟音、凄まじい衝撃。世界が一瞬、真っ白に染まった。
「詩菜乃っ!?」
真鈴の声が遠くに霞む。
意識が遠のいていく、数秒間を、数分、数時間に引き伸ばした暗闇の中で、真鈴の悲壮な叫びだけがこだました。
「違う、私そんなつもりじゃ……詩菜乃! 詩菜乃っ!!」
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回想を終えた私の後頭部に、あの時感じた衝撃の記憶が蘇り、何秒かの間、鈍痛が続いた。
決定的な記憶を取り戻した今、私の心の中には、この喫茶店を訪れてから一番の落ち着きがあった。
そうだ。私は、この事故で死んだんだ。
ひとくち、コーヒーを口に含む。さっきは気付かなかったコクの深い苦味に、私は顔をしかめる。
「……真鈴、ごめんなさい」
さっきの記憶は正しい。間違いなく、私が生前経験した記憶だ。
ならば私は、真鈴に突き飛ばされたことによって頭を打ち、死んだことになる。事故とはいえ、真鈴は罪に問われるだろう。
私が鈍臭いせいで、しょうもない死に方をしてしまったせいで、せっかく開かれた真鈴のアーティストとしての道を塞いでしまった。
自分が死んだことに大した感想はない。親に申し訳ないという気持ちはもちろんないし、成したい大義も守りたい夢もなかったから。だけど、一番の友人の立派な夢を邪魔してしまったことが、ひどく心残りだった。
「……マスター」
「はい」
呼びつけると、マスターは手元の道具をその場に置いて私に向き直る。
ボウルをかき混ぜて、何かお菓子の生地みたいなものを作り始めていたのがちらりと見えた。私の次に来る客のためのスイーツでも作っているのだろうか。
「思い出せました。自分が、どうやって死んだのか……」
「左様でございますか?」
最後に疑問符がついたような違和感のある返事だったが、気にする余裕もなく、私は二杯目のコーヒーを飲み干して続ける。
「私、事故で頭を打って死んだみたいです。ダーウィン賞には負けるけど、とってもマヌケな死に方でした。それに、友達に迷惑までかけて……」
「死にたい気分、といったところですかな」
マスターの不謹慎な冗談に怒る気も起きない。生まれ変われるのか、天国や地獄にでも行くのか分からないが、とっとと自分の全てを忘れて消えてしまいたい。
私は椅子を引いて、席を立つ。青いばかりの店内を見回して、情景描写としてはぴったりだなと苦笑いが漏れた。
「どちらへ?」
「死ぬ前の記憶を取り戻しました。マスターが言ってた、次に魂の向かう場所とやらに案内してください」
「まだ、ミルクプリンは残っておりますよ」
なにを馬鹿なことを、と笑う。
「死人に、礼儀作法を求めるんですか? 出された食べ物を残すのにはそりゃ抵抗がありますし、作ってくれたマスターには悪いけど。死んでしまった今、そんなもの守る気はありませんよ」
「はは、そう言わず。最期の食事なのですから」
内心でうるさいなと思いながらも、残り半分以下のミルクプリンを大人しく完食した方が話が早いことに気付くのに、それほど時間はかからなかった。
もう一度椅子を引き、着席し直そうとして、やめた。死人に行儀作法など必要ない。
私は立ったまま皿を持ち上げると、ミルクプリンを滑らせて、残り半分をまるまる口の中へ落とした。
そして、最期の回想の、幕が上がった。
#
診察室を出てロビーに戻ってきた私に、制服姿の真鈴と赤壁が、こちらが引いてしまうくらいの勢いで駆けてくる。
「大丈夫!?」
「だから言ったのに、大丈夫だって。いろいろ検査してくれたけど何ともなかったよ」
「よかった……」
真鈴が、ほっと胸を撫で下ろし、その場に膝から崩れ落ちてぺたんと座り込む。
大袈裟だなぁ、と苦笑する私に、安心した表情の赤壁が自分の頭を指で指しながら聞く。
「頭、すごい勢いで打ったって聞いたけど」
「一瞬気絶しただけでしょ。昔から石頭だし、大したことないって」
「石頭って言っても、本当に石に頭をぶつけて気絶したら心配するに決まってるじゃない」
「何にせよ、何事もなくてよかった」
念の為と処方された痛み止めの薬を受け取り、3人連れ立って病院を出る。
昨日の夜、真鈴と口論になってしまい、私はそこで頭を打って気絶してしまった。数秒意識を失ってすぐに目が覚めたのだが、真鈴から今までの深刻な空気が吹っ飛び、どうにか和解することができた。
私は大丈夫だと言っていたのだが、その翌日の学校帰り、私は真鈴と赤壁に連行されて市の病院で診察、検査を受けた。
結果は「異常なし、ただし痛みが続くようならまた検査を受けに来ること」との事。痛みが続くも何も、タンコブができているだけだし、このコブが消えたら大丈夫だと思うのだが。
市病院は学校最寄りのバス停から10分かからないくらい。今日は二学期末の懇談会があり、授業が昼までだったので、待ち時間と検査にけっこう時間はかかったがまだ夕方というには明るい時間帯だ。
バスに乗りこみ、五人並べる最後列の長椅子に三人で腰掛ける。バスが走り出したタイミングで、真鈴が深刻そうに口を開いた。
「その、ごめん」
何に対するごめんなのか図りかねて、私は二秒ほど遅れて返事をする。
「だから、大袈裟だって。頭なら大丈夫だから」
「その事もだけど。彼氏を疑って、親友まで疑って、酷いこといっぱい言ったと思う。それを、ごめん」
彼女らしからぬおかしな言葉遣いでの謝罪が妙にくすぐったくて、私は冗談めかして笑った。
「うん、傷付いた。これから喫茶店行く時は全部真鈴のおごりね」
「そんなことで許してくれるの?」
「……冗談だよ。自分の分は自分で出すから」
許しを乞う真鈴の態度は、二年付き合ってきてこれまでにないほど切実で、私はすぐに不用意な冗談を言い放ったことを後悔する。
バツが悪そうに首の裏をかいて、赤壁が口を開く。
「俺が真鈴に変な心配かけさせたのが悪い。ごめん和泉、相談乗ってもらって、迷惑までかけて」
「赤壁にまで謝られたら冗談で返しにくいよ。本当にもういいから。私も同じ立場ならどうなってたか分かんないし……」
次に言おうとした言葉を紡ごうとしたその時、私の頭の中に、妙な感覚が生まれた。検査で見逃した異常ではない、もっと精神的な部分の違和感だった。
いや、生まれたというよりかは、元々あった何かが、大きく形を変えようとしているような。
何か言おうとして固まった私の顔を、真鈴が心配そうに横から覗き込む。
「詩菜乃?」
「あぁ、ごめん。何でもない」
私は今、何を言おうとしたのか。
その言葉は、何気ない、他の人からすれば何の変哲もない言葉だったに違いない。けれど、それは私にとって、何か大きな変革をもたらす重大な言葉である気がした。
本当に大丈夫なの、やっぱりどこか悪いんじゃない、としつこく心配する真鈴をかわすために、私は赤壁に話を投げた。
「ていうか、渡したの? アレ」
「あぁ、いや。病院行くのにプレゼント渡すってのもあれだし迷ってたんだけど、持ってきてるんだ。ここで渡すよ」
「アレ? プレゼントって?」
ひとりだけ話の分かっていない真鈴の膝の上に、赤壁はカバンから取り出した、可愛い紙袋を置いた。
そう。真鈴があの日見たのと同じ、文房具屋の可愛い紙袋だ。目を大きく見開いた真鈴が、袋と私たちを交互に見る。
「これって」
「文房具屋で買った、絵の具セット。真鈴、今日誕生日だろ」
私は、あの日文房具屋で交わした赤壁との会話を回想する。
「あった。ほら、これ」
「これって……絵の具セットかよ」
絵の具セットと言うと、小学生の時に買わされた、カラフルなカバンの中に絵筆やバケツが詰められたアレを連想してしまうが、最近は大人用の絵の具セットも出ている。
大きめのポシェットみたいな入れ物の中に、水彩をするための最低限の道具が入ったそのセットを持って、私の意図を察した赤壁は露骨に嫌そうな顔をする。
「……俺に、真鈴から絵を習えと?」
「何、文句があるの?」
「いや。俺、絵ヘタだし。そんな上手くなりたいとも思ってないし……」
「絵が下手だから人に習うんでしょ。別に絵を上手くなれって言ってるんじゃない。一緒に絵を描いてあげられるようになれば、真鈴が喜ぶんじゃないかと思ってね」
手に持った絵の具セットをじぃっと見て、赤壁はなおも戸惑い顔だ。
「別に上手い下手は関係ない。一緒に絵を描いていれば、真鈴も、絵の悩みを話す気になってくれるんじゃない?」
「うーん、そんなもんか?」
「あ、そういえば明後日、真鈴の誕生日じゃん。お揃いで買えば? 久しぶりに水彩描いてみようかな、とか言ってたし喜ぶと思うよ」
パースが上手くとれないとか、構図がしっくりこないとか、そういった相談を赤壁が受けて何か言葉を返せるか。考える間もなく、今と同じ戸惑い顔で的はずれなことを言う赤壁が目に浮かぶ。
だがそれでいい。もとより真鈴も赤壁に対してそんな専門的な質問はしないだろうし、信頼のおけるパートナーが目下迫った課題と同じ作業をしてくれたら、多少なりとも心の支えにはなるはずだ。
「たしかに、迷ったままずっとプレゼント決められてなかったんだよな……んー……」
しばらく間を置いて、赤壁は眉間に皺を寄せながらも薄く笑い、呼吸に伴って少し揺れたのと変わらないくらいの頷きを返してきた。
「分かった。相談したのは俺だし、和泉がそういうならそれがいいんだろう。明後日、これ渡して頼んでみるよ」
「うん。描けた絵、見せてね」
片方の口角を上げて意地悪く付け加えると、赤壁はやはり露骨に嫌そうな顔をした。
あの日、赤壁に買わせた2つの絵の具セット。
そのうちひとつは、赤壁自身が使うもの。もうひとつは、真鈴への誕生日プレゼントだった。
包装を頼んで、プレゼント用の紙袋を用意してもらったのだが、店員さんが勘違いしたのか赤壁の頼み方が悪かったのか、赤壁のぶんまで包装と紙袋をつけられてしまった。
かさばって邪魔そうにしていたから、ひとつ持つよ、と声をかけてひとつ預かり、しばらく持っていたのだが、それが迂闊だった。
結果として、真鈴が勘違いを起こしてしまったのは、プレゼント用のお揃いの紙袋を、私と赤壁がひとつずつお揃いで持っていたのを目撃したのが原因だったのだから。
あの日の経緯を説明し、二日越しの勘違いを正すと、真鈴はまさに「ぶわっ」と音が聞こえそうな勢いで、瞳から大粒の涙をぽろぽろとこぼし始めた。
「私のためのプレゼントだったのに……二人ともごめん、本当にごめん……!!」
「おい、こんなバスの車内で泣くなよ」
カバンのポケットからハンカチを取り出し、真鈴の手に押し付ける赤壁。
まさかこんなに感極まってしまうとは思っていなくて、呆気に取られる私をよそに、真鈴はなおも謝罪と感謝を交互に述べ続ける。
「ごめん、ホントにありがとう。今まで貰ってきた中で一番嬉しい! ホントに、ごめん」
「落ち着きなよ。あと、赤壁。プレゼントって以外にも言うことあるでしょ」
何のことだととぼけようとして、赤壁は三秒で諦めた。そんな睨むなよ、と私から目を逸らし、大きな溜め息を吐く。
「あー。その、今度の休み、俺ん家で絵を教えてくれないか? プレゼントって言っといてこんなこと頼むのもあれだけどさ」
「……そっか、それで2セット買ったんだよね」
「いや、ホントに忙しかったらまた今度でいいから。ポスターの件もあるだろうし、ホントに」
「赤壁」
「だから睨むなって。お前の目デカいから怖いんだよ」
目が大きいというのは、一般的に可愛らしい顔立ちの特徴ではないのか。ふん、と私は鼻を鳴らす。
一連のやり取りに吹き出すように笑って、真鈴は大きく首を縦に振った。
「もちろんいいよ。ポスターデザインが行き詰まってて、久しぶりに水彩とかやって、気分変えたかったし」
「そうか。ありがとう」
「それに、私も見てみたいしね。赤壁画伯の、初めての水彩画」
「……勘弁してくれ」
朗らかに笑い合う二人を隣で見て、私もつられて笑う。同時に、胸に再び訪れた感情を、笑顔のまま私は受け入れた。
二人が幸せでよかった。この笑顔を守ることが出来てよかった。
そして、少しだけ、羨ましい。
――赤壁にまで謝られたら冗談で返しにくいよ。本当にもういいから。私も同じ立場ならどうなってたか分かんないし……
その言葉に続けようとした本当の想いを、ようやく屈託なく受け入れられそうだ。
胸の中に咲いた、心象を美しく飾り立てる真っ赤な造花が、役目を終えて枯れ始める音を聞いた気がした。
ふと、バスが止まる揺れを感じて、窓の外を見る。
見慣れない、少なくとも行きのバスでは見なかったバス停名に、首を傾げる。
「あれ。『鶴見』……?」
「うわっ、乗り過ごした!」
「何してんだ降りるぞ!」
三人慌ててバタバタとカバンを持ち上げ、バスの降り口へと急ぐ。
晴れ渡る空は、暮れる夕焼けと混じりあった、爽やかなグラデーションを映し出していた。
#
手から力が抜け、支点を失ったミルクプリンの皿が、真っ逆さまに床へと落ちる。
完全に終わったと思っていた回想の続き。死などとは全く無縁の、絵画に描き出されたような幸福の風景を見て、私は表情を失った。
頭の中の無数のハテナマークが、床に散らばった皿の破片のように、それぞれの形に真実を浮かび上がらせる。
記憶が、蘇った。
膝から崩れ落ちてもなお無表情のまま、流れ出て頬を伝う涙を拭いもせず、私はつぶやきを漏らした。
「全部、思い出した」
足元に散らばった皿の破片が、青い、蛍のような光に包まれて、まばらに散って消えてゆく。
ふと、カウンターの方を振り返ると、マスターがエプロンを脱いで、優しい目でこちらを見つめていた。
「全て、思い出されたようですね」
「……はい」
「それでは、私は失礼致します」
行ってしまうのか。立ち上がり、カウンターの奥へ消えていこうとするマスターの背に声をかけようとして、不意にテーブルの上に置かれたものが目に入った。
私の座っていた席とその隣の席には、ひとつずつ、コーヒーとオールドファッションドーナツのセットが置かれている。
「この後、和泉様をお見送りする生者のお客人がひとり、いらっしゃいます。そのお方とご一緒にお召し上がりください」
背中越しにそう言うと、マスターは、本当に行ってしまった。カウンターから身を乗り出してみたが、マスターが消えていったキッチンの奥は青い暗闇が一切の光を閉ざして、何も見えない。
感謝のひとつも、無礼な態度に対する謝罪のひとつも言えなかったな。後悔の溜め息をひとつ吐いて、肩を落とした瞬間だった。
カランカラン、と音がして、冷たい外気が店の中に入り込んでくる。
生者のお客人が、ひとり。ブロンドヘアーの似合う、私より少し背の高いその女性は、私の顔を凝視して、ひどく狼狽した様子で言った。
「……私?」
それは、私に対する、これ以上になく的を得た呼び掛けだった。
少し切ない気分を押し殺して苦笑し、私は、彼女のために椅子を引く。
「うん、私だよ。顔を合わせるのは初めてだね。
……和泉詩菜乃さん」
私を見送る、最初で最後の客人は、おそらく大学生くらいになった、和泉詩菜乃。
つまり、もうひとりの私だった。
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全てのきっかけは、小学一年生のときだった。
ある程度分別がつく歳になった今だから言えることだが、和泉詩菜乃の母親は、本当にろくでもない人間である。
具体的には、不倫相手との間に子供を作って離婚し、その年のうちに不倫相手と再婚してしまうような、どうしようもない爛れた人だった。
この国では女性が再婚する場合、離婚成立から100日が経過している必要があるらしい。あんな母親のことをあれこれと調べるのも嫌だったので詳しくは知らないが、たぶん、100日経ってすぐの101日目に再婚が成立したんだと思う。
結果として、詩菜乃は小学生時代ほとんど両親から愛を受けられずに育った。
母親の実家は太く、再婚相手も銀行務めだとかで、経済力はある家庭だったので、進学に関しては行きたいと言った学校に嫌な顔ひとつせず行かせてくれたけど、自分たちと血の繋がった娘である妹ばかりを溺愛して、詩菜乃は蔑ろにされた。
参観日に母親が来ないのは当然だったし、誕生日プレゼントなどはもらったことがない。虐待を受けていたとかそういうのじゃなかったけど、食事中に会話もなく、おはようやおやすみの挨拶もかわさず、幼い頃の詩菜乃はただひたすらに、愛に飢えていた。
一概に母親のせいにしてしまうのもどうかと思うけれど、しかし原因の大部分はこれのせいだろう。結果として、詩菜乃は嫉妬深い性格になった。
こうして、他の人が自分よりいい思いをしていることが絶対に許せないという、小さなモンスターの和泉詩菜乃が誕生してしまったのである。
しかし、小学校高学年にもなると、そんな性格では人から愛されないということを学ぶ。
そうして、詩菜乃が無意識のうちに作り出した人格……それが、私だった。
詩菜乃が我慢できない、抑え込めない強い嫉妬を感じた時に表に出てきて、その場をやり過ごす。詩菜乃の副人格である私には、ほとんど何に対しても執着心というものが存在せず、嫉妬などしたくても出来ないように作られていた。
「解離性同一性障害だっけ、正式名。親がもう少し気にかけてくれてたら、私はもっと早く、病院の治療なりを受けて消えてたのかもね」
「……どうして、高校生の姿なの?」
「たぶん、高校生の時以来、表に出てきてないからじゃないかな。あなたが成長したからだよ」
詩菜乃は、面映ゆそうな顔で、口元を隠すようにドーナツを口に運んだ。私もコーヒーに口をつけ、自分のドーナツをひとくち齧る。
硬い表面と柔らかい内部の食感に、懐かしさをおぼえる。優しい甘みの中に、香ばしい苦味が程よく効いている。
「高校生、か。高校生ね」
何度も反芻し、その回数に比例するように、乾いた笑いをこぼす詩菜乃。
「絵に嫉妬したり、赤壁のことで嫉妬したり。真鈴に、めちゃくちゃ嫉妬してたなぁ。あなたがいなかったら、きっと友達になれてなかったと思う」
「そうかな。今みたいな関係じゃないにしても、案外、ライバルになったりとか、別の形の関係があったかもしれないんじゃない?」
私という人格を生み出す前の、嫉妬深くすぐにヒステリーを起こす詩菜乃が、勝ち気な性格の真鈴と正面からぶつかり合う様子を想像して、変な笑いがこみ上げる。
詩菜乃は、赤壁のことが好きだった。
真鈴が彼と付き合い出してから、詩菜乃は赤壁と話すときに、ほぼ毎回私を出した。それほど真鈴に嫉妬していたし、それほど赤壁に嫌われたくなかったのだろう。
「キッカケは、赤壁のことを吹っ切れた時なんだろうね」
そう言った私の顔を、詩菜乃は一瞬見ようとして、しかし反対方向に顔を逸らした。
私と詩菜乃は、ほとんど一心同体の存在だ。詩菜乃が赤壁のことを好きならば、私も当然、赤壁のことを好きである。
それでも、私は嫉妬をしない、嫉妬するほど執着しないように作られた人格だから、想いの大きさまでは同一ではない。そっぽを向いた彼女がどんな顔をしているのかは大体察しがついたが、あえてそれには言及しないでおく。
「赤壁と真鈴が仲睦まじくしているのを見て、私は、二人の幸せを願うのと同時に、嫉妬することができた。それはつまり、詩菜乃。あなたが、私を作って以来絶対に人に見せまいとしていた嫉妬の感情を受け入れられたってこと」
「……そうだね。それから私は、嫉妬したり、人を羨んだりしても、あなたを表に出さないようになった」
「うん。だから私は役目を終えて、あなたの中で眠りについて……消えるのを待った」
そうして、長い月日をかけて、和泉詩菜乃が大学生としての日々を過ごしたある日。
私は、完全に消滅した。
私という人格は、死んだのだ。
この喫茶店に来てからの回想で、私が死ぬまでの記憶が途切れ途切れになっていたのは、そういう理由だ。私が私として体験した、最期の3時間の記憶が、あの回想だったのだ。
ドーナツをもうひとくち齧り、ほぼ半円になったドーナツの、穴だった部分を覗く。その穴に詩菜乃を捉えて眺めながら、私は頬を緩ませた。
「大学行って、彼氏できた?」
「うん。でも、コロナでオンライン授業になってから全然会わなくなって、4ヶ月で別れちゃったんだ」
「コロナって?」
「あぁ……えっと、インフルエンザの、百倍タチが悪い感染症みたいなものかな。今は、冬以外でも外を出歩くにはマスクが必須なんだよ」
私が眠っている間に、世の中ではそんなことが起きていたのか。
いわゆるパンデミックというやつだろうか。街ゆく人々がみんなマスクをしている光景……あまり想像つかないけれど、どうやらみんな苦労しているみたいだ。
「コロナがどんなものなのか知らないけど、大丈夫? 元気にやれてる?」
「ははっ。おばあちゃんみたいなこと言うね」
詩菜乃の指摘に、顔が熱くなる。高校生のまま時が止まってしまった私よりも大人な詩菜乃に対して、随分とまぁ年寄りじみた問いかけをしてしまったものだ。
はにかんだ笑顔を返すと、詩菜乃はコーヒーをひとくち飲んで、溜め息を吐くように言う。
「うーん、ワクチンも打ったし、元気には過ごせてるけど。やっぱり、コロナが流行る前よりかはつまらないかな。せっかく成人したのに、飲み会にも行けやしないんだもん」
「そっか。お酒が飲める歳になったんだ」
「でも、毎日つまらないなと思ってばかりじゃ、余計つまらないしね。最近は色々新しいこと始めてみたりしてるんだ。一人暮らしも始めたし」
ここまでの詩菜乃の近況報告の中で、それは一番喜ばしいことだった。
高校生になって以来、家の中にいる時は、詩菜乃は私を出さなくなった。それはつまり、愛情を一身に注がれる妹に、嫉妬することすら諦めたということ。詩菜乃の親に対する感情が、どれほど冷え込んでいたかというのを最も端的に表す事実だろう。
あの親元を離れられたのなら、きっと詩菜乃はもっと自由に、のびのびと生きていける。掛け値なしに、私はそう思うのだ。
「私、美大に入って、ちゃんと絵を勉強し始めたの。まだ胸を張れるような賞は貰えてないけど、コンクールに出品したりもしてる」
「そうなんだ。見たかったな、詩菜乃の絵」
「そうだね。私も、見せたかった」
寂しく笑う詩菜乃の横顔を見て、私は、そろそろ潮時かと思ってドーナツを完食し、本日三杯目のコーヒーを飲み干した。
対面してから30分も経っていないくらいだが、もう十分だろう。こうして私と詩菜乃が顔を合わせて話せただけで奇跡だし、死人がこれからを生きる生者に、あまり干渉するべきじゃない。
椅子を引いて席を立つ。これから私がどうなるのかは分からないけれど、今はとりあえず、この店を出よう。
「じゃあ、行くね」
「……そっか。もう行っちゃうんだ」
まだ少ししか飲んでいないコーヒーと、まだひとくちしか食べていないドーナツをカウンターに残して、詩菜乃は私を見送るために立ち上がる。
店の出入口のドアの前まで来た時に、後ろから手を掴まれる。何も言葉を返さず、振り返りもせず、暖かな詩菜乃の手の温度を感じながら彼女の言葉を待った。
「今までありがとう。おかげで私、大人になれたよ」
濡れた声に、ほんの少しだけ、目頭が熱くなる。
あと少しだけ、願わくばいつまでも、こうして手を繋いでいたい。まだまだ、彼女の向かう先の未来を、傍らで見守っていたいと思う。
「見守ってるよ。ずっと」
少し、飾った言葉になってしまっただろうか。
死の間際、最後の最後に生まれてしまった、最初で最期の執着を振り払う。
私は重いドアを押し開けて、この店の外へと、一歩足を踏み出した。
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低血圧な私にしては珍しく、今朝はとてもすっきりとした目覚めだったのだが、頬が涙で濡れていたのはどういうわけなのだろう。
何か、おもしろい夢を見ていたような気がするけれど、夢の内容はさっぱり覚えていない。泣くほど感動的な夢を鮮明に覚えていられたのなら、来週提出のシナリオ制作の課題はきっと楽だったに違いないのに。
久々に早起きしたのをいいことに、今日は早めに下宿を出て大学に赴いた。紅葉がきれいに見える喫煙所にイーゼルを立てて、次のコンクールに出品する絵の仕上げに取り掛かっている。最後に全体のバランスを整えたら、完成だ。
「あれ、詩菜乃?」
声に振り返ると、キャメルのボックスとジッポーを両手に持った親友が、珍獣でも見るかのような目で私を見ていた。
私が美大に進むことを決めたのには、少なからず真鈴の勧めがあったことが関わっている。軽く手を上げて、おはようと挨拶する。
「今日は早いね。ねぼすけの詩菜乃が」
「なんかパッチリ目が覚めてさ。真鈴は、一限始まる前に一服しに来た感じ?」
「いや、私も詩菜乃と同じかな。コンクールに出す絵の作業をしようかなって。まだモチーフもなんも決めてないけどね」
真鈴がマスクを外してタバコに火をつけるのを見て、私もカバンのポケットからタバコを出す。メビウスの赤いオプションだ。
ふたり並んで灰皿の近くに置かれたパイプ椅子に座り、空に向かって煙を吐く。澄み渡った秋の早朝の空には、淡い雲がのろのろと流れていた。
「いい絵だね」
まだそんなに長くなっていない灰をせっかちにもトントンと落としながら、真鈴は私のイーゼルの方を向いて言う。
まさしく今日この日の空のような、優しい青空の下、紅葉を見上げる制服姿の少女の後ろ姿を描いた絵。上手くは言えないが、我ながら魂のこもったいい作品に仕上がったと思う。
「タイトルは決めてるの?」
「まだ。『紅葉と少女』にしようかと思ったんだけど、そのまんますぎるかなって」
「ふうん……。ねぇ、この女の子、詩菜乃がモデルでしょ」
何が面白いのか、ニヤニヤしながら尋ねてくる真鈴に、私は首をゆるく横に振る。
たしかに絵の中の少女はブレザー姿だし、髪型も高校時代の私によく似ていると思うけど。
「違うよ」
「え? じゃあ誰なの」
これは、私しか知らない少女。
私だけが覚えている、造られた花のように優しい少女。
薄く笑って、描かれた少女の後ろ姿を見つめながら、私は噛み締めるように言った。
「秘密」





























