インメルマン・ダンス

主に嫌いな物や腹立つ物について書いていきます。

日常の謎以外のミステリを受け付けない体になってしまった話

小説、ドラマ、映画、アニメ、ゲーム。

媒体問わず、『ミステリ』は面白い作劇のために必要な要素を多く兼ね備えた、強いジャンルである。

ミステリで解決すべき謎は、読者(視聴者)の興味関心を掴まえる『フック』になるし、犯行に至るまでの犯人の動機や、関係者たちの人間模様といった『ドラマ』に引き込まれていき、最後には推理による事件解決という『カタルシス』が得られる。

謎が生まれ、それについて調べ、それを解き明かす。話の流れが、自然と作劇の基本に沿うような作りになるため、ミステリは複雑なトリックなどを考えなければ、案外創作初心者に易しい題材だと言えるかもしれない。


以前、このブログで書いたと思うが、僕は小学生の頃からミステリが好きな子供だった。

すみません、良いように言いました。正しくは、ミステリ作品を消費することで自分が賢くてクレバーな人物に見えると思い込んでいる、めちゃくちゃ嫌な気色悪いクソガキでした。

おそらく現代の日本で、子供が生まれて初めて触れるミステリ作品は『名探偵コナン』だろう。

コナンに始まり、ドラマ『喰いタン』、『謎解きはディナーのあとで』。ゲーム『逆転裁判』というミステリ遍歴を辿った僕は、中学までは、『ミステリ=殺人事件の解決』という狭い枠組みの中で生きてきた。


しかし、なんとなくミステリにも飽きてきた。今SFを知った気になっている大体のオタクと同様に『ハルヒ』や『シュタインズ・ゲート』でSFに触れた僕は、そういった要素のあるSF作品や、『カイジ』や『ノーゲーム・ノーライフ』など、ミステリとは呼べないが賭け事やゲームを頭脳と閃きで突破する作品を好むようになっていく。

そんなある日、例の今は無きブログ、『トリガーハッピーエンド』にて、僕はある作品を知る。

アニメ『氷菓』である。


f:id:bachigai19:20211203055929j:plain


米澤穂信氏原作の『古典部シリーズ』を原作とした2クールのアニメで、原作シリーズ第一弾『氷菓』から第四弾『遠まわりする雛』までを映像化したものとなっている。

氷菓』のあらすじだけざっくり説明しておこう。すでに知っている方は読み飛ばしてもらって構わない。


いつも気だるそうな省エネ主義の少年・折木奉太郎(おれき ほうたろう)。彼のモットーは、「やらなくてもいいことならやらない。やらなければいけないことは手短に」。

そんな奉太郎は、今は世界を飛び回っている地元校OBの姉から届いた手紙により、神山高校に入学して早々、古典部への入部を強制される。嫌々ながらも向かった先の部室で、奉太郎は千反田える(ちたんだ える)という少女と出会う。

成り行きとはいえ、彼女の前でいくつかの『日常の謎』を解き明かした奉太郎は、ある日、えるに喫茶店へ呼び出される。

訥々とえるが語り出したのは、幼少期の思い出。今は行方不明となってしまった、優しかったえるの叔父・関谷純(せきたに じゅん)の話を聞いて、泣き出してしまったこと……。

「子供の頃、叔父の話を聞いて、私が何故泣いたのか。考えて頂けないでしょうか」

関谷純の過去、そして、神山高校で起こった過去の『事件』……。奉太郎と古典部の部員たちは、思わぬ真実に辿り着くことになる。


というのが『氷菓』の簡単なあらすじ。

当時の僕は衝撃を受けた。なんと、人が死ななくてもミステリは成立するのである。

一部のエピソードを除いて、このシリーズでは早急に解決すべき緊急性のある『事件』が発生しない。全て、「言われてみれば、たしかに」と思う程度の、普段なら気にも留めないなんとなく不思議な出来事。

やらなくてもいいことはやらない奉太郎は、それをスルーしようとするのだが、作中で好奇心の化身とまで呼ばれているえるの「私、気になります!」という魔法の一言によって、結果的に謎解きをすることになってしまう……というのがお決まりの流れである。

作中で解決した謎といえば、さっきのえるの依頼をはじめ、「中にいた生徒が鍵を持っていないのに施錠されていた教室の謎」とか、「毎週違う人間が借りに来る本の謎」とか。スリルもショックもサスペンスもない、小さな謎ばかり。

しかし、小さな謎だからこそ、そこには町で暮らす人々の素直な気持ちや、ひた隠しにしていた後悔など、心情がリアルに鮮明に描き出される。

僕はシリーズ二作目・『愚者のエンドロール』が一番好きなエピソードなのだが、この作品で描かれた人間模様は、フィクションじみていながらも古典部シリーズの中で一番生々しいのではないかといった感じで、心をぐちゃぐちゃにされたものだ。


そう。殺人事件を題材にしたミステリと、今お話した『氷菓』、ほか『ビブリア古書堂』シリーズ、『ハルチカ』シリーズなどの日常の謎を題材にしたミステリでは、決定的に違う要素がひとつある。

それは、『描かれる人間ドラマの幅広さ』だ。


殺人事件を題材にした作品で描かれる人間ドラマがワンパターンだと言いたいわけではない。

しかし、殺人事件を起こす動機に説得力を持たせようとするなら、弱い理由では許されないだろう。稀に、大した理由もなく殺したかったから殺したみたいなサイコ野郎が犯人で、動機に重きを置いていない作品もあるが。

殺人事件を題材にする場合、どんな人間ドラマを描いても、その行き着く先は殺人事件。誰かを殺したいと思うほどに大きい理由、読者(視聴者)も共感し納得できる理由となれば、その理由はなかなか狭い範囲に限られてしまうのではないだろうか。


その点、日常の謎を題材にしたミステリはかなり自由度が高いと言える。

なにせ、コナンとかでよく見る「そんな理由で殺したのか!」みたいな心配がない。ハンガーぶつけられたとか、茶髪の女ムカつくとか、トンデモ動機だとしても、やることが殺人などの大きな犯罪でなければまぁそこそこ許されるだろう。

そのぶん、重大犯罪が絡まない以上、謎解きの動機が弱くなりがちな点に関しては諸刃の剣と言ったところか。

友達間の軽い嫉妬や、小さな子供の無邪気。そういった些細なことが積もり積もって殺人事件のキッカケになり得ないとは言えないが、それら単体のみで殺人の動機とするのは難しい。しかし、日常の謎というジャンルはそういった些細なことひとつでも動機となり得る。ドラマを生み出す種になる。


僕は殺人事件を描いたミステリを消費しすぎてしまって、人間ドラマや犯人の動機に、「また色恋沙汰かよ」、「最終回に組織の陰謀を暴くのあるあるだよな」、などと斜めで見ることしかできなくなってしまったのだろう。

日常の謎はそういった飽きが、まぁいずれ来るのかもしれないがまだ来ておらず、しばらく新鮮な気持ちで楽しめている。


スリルやサスペンスに疲れたら、日常のほろ苦い人間ドラマから生まれる謎を楽しめる『日常の謎』モノを読んでみてはいかがだろうか。